資料館 2018.03.04

ジャズ史上初!外国のビッグバンドが米国の主要ジャズ祭で主役

モンタレー・フィールドに何が起こったか!

(Lonard Feather:Mon Sept 23, 1974 Los Angels Times)

日本のニューハードが金曜日の夜、モンタレーに出演した。ここにジャズ史上初めて外国のビッグバンドが米国の主要ジャズ祭でその主役を務めたわけである。今まで日本のバンドを単に、物マネがうまいとしか書かなかった評論家たちは当夜のニューハードによって、それが誤りであることが分かったであろう。オープニングは前田憲男の編曲によるバッブ曲<ドナ・リー>。ここでは、競演のガレスピーと岸義和の力強いトランペット・ソロがきかれた。続いては山木幸三郎と佐藤允彦の作編曲によるオリジナル作品。このバンドでギターを弾く山木は、2本のクラリネットと2本のフルートを使用して、人の心をとらえる印象的な作品を提供した。翻訳されたタイトルによれば、「長袖の着物姿ですすり泣く日本女性」である(注:”振袖は泣く”)。これは伝統に根ざしたモダンな作品である。この曲に一役買っているのは、ハーマン・ハードのトロンーボン奏者ビル・ハリスによく似たサウンドの片岡輝彦とフルートの鈴木孝二・森守であろう。(中略)前田のアレンジによるミンガス作品、<直立猿人>でステージは締めくくられた。聴衆はまるで釘付けされたように椅子に座ったままだったが、続いて一斉に立ち上がりスタンディング・オペレーションに湧いた。ともかく、ブリリアントなサックス・ソロと技術的にも申し分のない四方田勇夫のドラムスは注目に価する出来だった。編者注:この時の聴衆は8,000人。

モンタレー・ジャズフェスティバル

「モンタレーのニューハード」ジャケットから・・(監修 悠 雅彦氏)

このアルバムは、第17回モンタレー・ジャズフェスティヴァル(MJF)に出演して圧倒的成功を収めた”宮間利之とニュー・ハード”の2夜にわたる全ステージを収録したメモリアルな2枚である。
(途中・・アルバムの録音状況の説明・・略)

ニューハードがMJFに出演することになったきっかけは、スイング・ジャーナル詩の「マイ・オピニオン」で、いソノ・てルヲ氏が、折から来日中のジョン・ルイス(MJQ)にニューハードのアルバムを試聴させたことであった。同祭のミュージカル・ディレクター(正しくはMusical Cordinator)であるルイスはニュー・ハードのすぐれた演奏に驚き、帰国後まもなく、ニューハードに同祭へ出演するように呼びかけてきた。さまざまな紆余曲折を経て、ニュー・ハードが出演依頼を受諾したとき、MJFの開催は間近に迫っていた。過去MJFには松本英彦や在米中の秋吉敏子が招かれて出演したことはあるが、ビッグ・バンドが参加するのは初めてだった。ニューハード参加実現の裏には、橋渡し役を務めたS・J誌の児山紀芳、現地でジミー・ライオン(General Manager)と直接の接渉にあたってくれた瀬川昌久、資金面及び精神的なサポートを惜しまなかったチャーリー・石黒、その他関係各氏の絶大な協力と援助があり、これらの人々なくしてはこの快挙はありえなかっただろう。

モンタレー・ジャズ祭は今年で17回目を迎える。東を代表するのがニューポート・ジャズ祭/ニューヨークなら、MJFは西海岸を代表する。サンフランシスコとロスを結んだ線の1/3ほどサンフランシスコに寄ったウエスト・コーストにあるのがモンタレーだ。普段風光明媚な、海岸に面した閑静な町であり、せいぜい漁港や軍の飛行場があるにすぎない西海岸町のひとつだが、9月の第3ウィーク・エンドは世界的に有名になったこのジャズ祭によって、年に1度の賑わいを見せる.今年も例年のように市のカウンティー・フェアグランドで催されたこのMJFは、3日間で延べ33,000人のファンを動員し、切符の売上高と併せて、史上2番目という盛況に湧いた。ジャズ祭実行委員会は全3日間をすべて故デューク・エリントンの追悼にあてることを決め、ステージに故デュークの大きな似顔絵を掲げたり、緑の鉢を天井から吊るしたり、または舞台上に点々と置いたりして、まるでデュークの花園とでもいうべき、思わず万感胸に迫るセットをつくりあげた。

ところで、ニューハード一行は9月18日夜更け、モンタレーに到着した。空港にはジミー・ライオンはじめ、MJF関係者や日系有志らが出迎えてくれており、ホテルではジェリー・マリガンらの歓待を受けた。翌朝、ぼくと宮間さんは、我々サイドのスタッフの1人である在米中のカメラマン、今野治氏と落ち合って、MJFのオフィスにジミー・ライオンを訪ねた。

ライオンがいかにニュー・ハードを高くかい、その演奏を期待していたかは、刷りあがったばかりのプログラムに明らかだった。ぼくは本当にびっくりしてしまったのだが、ニュー・ハードが出演するのは初日(20日)と最終日(22日)、それもフェスティヴァルの評価に決定的な意味をもたらすと思われる”最終ステージ”であった。最終ステージの出来如何は、往々にしてフェティヴァルの出来そのものにつながる。このプログラム編成をみて、たとえジョン・ルイスの強力な推薦があったとはいえ、彼自身実際に見聞したこともないニュー・ハードを抜粋して、しかもトリを飾らせようとしている一事に、ぼくはニュー・ハードに賭けるライオンの並みならぬ決意と期待を読み取れるような気がしたのである。

それを反映して、関係者ばかりでなく、ミュージシャンも、ファンも、東洋の果てからやってきたこのオーケストラを温かくもてなし、あれこれと気遣ってくれた。ジェリー・マリガンは、空輸の途中で破損したメンバーの楽器を修理するために、万全の措置をとってくれた。またジョン・ルイスやジェローム・リチャードは、リハーサル時に適切な指示と助言を与えてくれた。たとえばライオン自身が空港にまで出迎えてくれたなどということも、ほかのアーティストには考えられぬ異例のことだったに違いないし、ニュー・ハードのためのスモール・レセプションを用意してくれたり、前夜祭におけるガーデン・バーベキュー・パーティで、多くのプレス関係者やアーティストにフィールド内の小ステージから宮間さんを特別に紹介したことなど、すべてが異例のことであったと思う。

メンバーは思い思いにモンタレーの空気を愉しんだ。ライオンの親友であるイトーさんやそのお嬢さんたちの案内でショッピングに出かけたり、サイト・シーイングを愉しんだり、夜は夜でクラブ「Ramada」やジャズ・クラブ「The Shutters」に足を伸ばしたり、僅かな自由時間を心ゆくまでリラックスすることに努めていた。

たったひとつ困ったことは1日中変わりばえのしない食事で我慢せねばならぬことだった。1日かそこらホテルの食事をとっただけで、メンバーの中には<アメリカ食>に辟易しているものがいて、初日を明日に控えてぼくなどはちょっと心配だった。だからイトーさんが”おにぎりの差し入れをしましょう。”と言ってくれたとき、”助かった”とぼくは心の中で思ったものだ。果たして非常時といえるかどうかーだが、ぼくはイトーさんの好意に甘えることにした。

そして初日。MJFはMJFクヮルテット(ジョン・ルイス、マンデル・ロウ、リチャード・ディヴィス、ロイ・バーンズ)+ ゲスツ(ディジー・ガレスビー、イリノイ・ジャケー、ジェリー・マリガン)で蓋をあけた。続いてインターナショナル・ピアノ・フォーラム(ディルウイン・ジョーンズ、ユービー・ブレイク、ジョージ・シアリング、遠来のマーシャル・ソラール、ジョン・ルイス)、プログラムは進んでサラ・ヴォーンへ。

ちょうどその頃、ホテルにイトーさんの差し入れが届けられた。おにぎり、さしみ、つけもの、にもの、フルーツ、そして味噌汁とお茶。イトーさんとお嬢さんたちが3人がかえで運んできた心づくしと差し入れはアッというまになくなってしまった。ニュー・ハードの面々にとって、これは滞米中の最高の御馳走だったに違いない。傍らで眺めていたぼくも、ふと日本のどこかにいるような気がしたほどだ。彼らがみるみる元気をつけていくのがはっきり分かる。これで思い残すことなく演奏に専念できるだろう。

ニュー・ハードの晴れの出番が近づいていた。一同が楽屋入りしたとき、素晴らしいステージを展開したサラ・ヴォーンを称め讃える拍手の波が、フィールドいっぱいにどよめき渡っていた。

ジミー・ライオンが幕前に現れて、1人の日本人を紹介した。K.ノブサダ氏という。彼はライオン氏の親友であるというばかりでなく、この界隈における日本人コミュニティーのリーダーである。ノブサダ氏が8000人を収容してふくれあがったアリーナの聴衆に向かって、日本からはるばるモンタレーを来訪したニュー・ハードを記念し、モンタレー・ジャズ祭のオリジナル・マークをそのままデザイン化した置物を贈呈する旨を告げると、期せずして拍手が湧き起こった。ライオン氏が宮間さんを招く。ノブサダ氏は宮間さんにこの洒落たMJF像を手渡すと、再びマイクに向かった。

レコードに入っているのはこの部分からである。曰く、”私の知っている日本語にバンザイという言葉があります。英語でいうがこれに当たります。ジミー・ライオンさんの音頭で万歳をしましょう。”

万歳三唱が終わると、ライオンが高らかに”Mr. Miyama & the NewHerd!”と呼び上げ、このバンドのテーマが勢いよくフォルテに跳ね上がった。拍手とともに幕が左右に割れ、ステージがライトに浮かびあがった。

ドナ・リー

パーカーの演奏で知られるが、マイルスのオリジナルかもしれないといわれる作品。ニュー・ハードが前田憲男(編曲)と組んで発表した「バップ/アップ・トゥー・デイト」(日本コロンビア)からの1曲である。「インディアナ」のコード進行を借りた作品(AB形式32小節作品)で、オリジナル通りのテーマ部ーtp(岸義和)+as(鈴木孝二)ーから中程の大胆なサックス・ソリ・そして後半のディキシーによる原曲の再現とこれにドナ・リーのテーマをダブらせていく手法など、聴きどころをたくさんもった演奏作品である。

この初日の幕あきで、ジミー・ライオンは見事な演出を施した。すなわち、バンド最後部のトランペット・セクションの一角に、それとなくガレスビーを座らせてアンサンブルに加わらせたのである。バンドは全員ハッピ姿であり、ガレスビーもハッピを身につけて座っているので、最初は聴衆もそれと気がつかない。やがてガレスビーだということが分かると、アリーナから大爆笑が起こった。

ソロは片岡輝彦(tp)、鈴木孝二(as)、白井(as)、岸義和(tp)の順で1コーラスづつリレーされるが、宮間さんはガレスビーに2コーラスという倍のソロ・スペイスを与えた。このあとサックス・ソリ(2コーラス)と四方田勇夫(ds)(1コーラス)のソロがつづく。

ぼくはといえば、録音技師フェルド氏に乞われて、ステージ真前のPA・コントロール・ボックスに腰をおろしていたのだが、音が鳴った瞬間コチコチに堅くなってしまった。足も手もまるで鉛のように動かない。自分が演奏しているわけでもないのに、である。ぼくはノートに、1曲目で多少の堅さを感じたのも実はぼく自身が緊張の金縛りにあっていたせいかもしれない、と記した。しかしいま聴いてみるとやはり多少の堅さは隠せぬように思う。このことは、力を抜いた絶妙な出だしから、リラクゼイションに富んだソロを披露していくガレスビーのプレイによって、はっきり窺える。

スナイパーズ・スヌーズ

ニューハードがこの渡米直前に佐藤允彦(作編曲)と組んで吹き込んだ「ストレイト・アヘッド」(前掲に同じ)の中の1曲。シンプルなメロディック・ラインをもったAA’B形式の作品だが、神秘的な響きをた湛えた和声構造が印象的だ。アドリブはA(8小節)中の単純なコードによって行なわれる。ソロは片岡輝彦(tb)と森守(fl)。

振袖は泣く

山木幸三郎作編曲作品。彼のオリジナルの中では最も親しまれているもののひとつだろう。2本のクラリネットと2本のフルートを中心としたアンサンブルが郷愁をそそる。テーマは3/4拍子の24小節。マイナー・モード・ブルースのような形で進行する。日本の代表的な陰音階(ペンタトニック)を用いており、ギターとピアノのユニゾンでその上行下降のスケールが示されていて、アドリブもこれに基いて行なわれる。ピッコロ・ミュート・トランペット、ギターのトレモロなども実に効果的で、この演奏が始まった瞬間、フェスティヴァルは信じられぬくらい、場内が水を打ったように静まり返ったあのシーンを、ぼくは今更のように思い出す。
ソロは片岡輝彦(tb)、鈴木孝二(fl)、森守(fl)。

河童詩情

「土の音」(日本コロンビア)からの作品で、山木幸三郎の作編曲になるもの。このオリジナル版は「妖怪河童今日何処棲也」というタイトルのトーン・ポエム風組曲で、「カッパ渡来の地」「黙秘の夜旅」「亡霊の沼」「奥義伝授式」「ネネコの泣節」「戦勝祝い唄え新国家」の各小品から成っていたが、今回の渡米に当たって、山木自身の手で約半分ほどの長さに新たにまとめられた。だが山木はさすがに単なるダイジェスト版にしなかった。彼の傑作として讃えられてよい作品だ。最初の合奏部が終わったところで鷹野潔(p)と四方田勇夫(ds)のやりとりとなる。前衛手法によるパートだが、両者の呼吸がピタリと合っているので聴衆の喝采を受けた。(以下略)

直立猿人

いわずと知れたチャーリー・ミンガスの作品で、フリー・フォームを投入した前田憲男のアレンジによって初めてビッグ・バンド化され、傑作「パースペクティブ」(前出に同じ)で初紹介された。テーマ部は(16小節/20/16)にワルツ・パートがつく。

大団円の瞬間の光景をいったいどう説明したらよいだろう。ふと我にかえると、ぼくは一勢に立って拍手をつづけている人々に囲まれていた。それは思わず胸がジーンとくる、心温まる一瞬だった。夢ではなく、熱狂的な拍手と歓声とともに、アリーナを埋め尽くした8000人の人々がいっせいに立ち上がったのだ。カーテンが閉じられ、ライオンが初日の終了を告げたあとも、人々は暫く立ちつくしたまま拍手を続け、口々にアンコールを叫んでそこを動こうとしなかった。予想もしないスタンディング・オヴェイションであった。トーマス・アルブライトもジャズ祭見聞記の中でこう書いた。

<今年の新しい話題の中で最もセンセイショナルだったのは、日本から来たニュー・ハードという輝かしいビッグ・ビッグ・バンドが、金曜夜、多くの注目を集めて登場したことであった。(中略)彼らの演奏はフェスティヴァル・アトラクションの中で最も大きな話題となった。個人的な印象をいえば、このグループに際立っていたのは、何よりも真のスピリットと本当の意味での豪胆さがあることであった>

(San Francisco Chronicle 1974-9-23)

ニュー・ハードにとってこれはまさしく一夜の勝利、というよりニュー・ハードは一夜にして世界的名声を得たのであった。翌朝、殆どの新聞がMJF初日の模様を伝えたが、ニュー・ハードについて書いていない記事はなかった。たとえば、先程のレナード・フェザーの書き出しはこうである。

<ジャズ史上初めて、海外からやってきたビッグ・バンドが全米主要フェスティヴァルの最大の見せ場を持ち去った。ニュー・ハードがアメリカへのデビューを行なった金曜の夜のことだ>

翌朝、ぼくらはどこを歩いていても、多くの人々から”昨夜の演奏は素晴らしかったよ”といって呼びかけられ、すれちがいざまに”ビューティフル”、”マーヴェラス”、”ファンタスティック”と声をかけながら握手を求めてくる人々に何度となく出会った。

ロサンジェルス・タイムス紙(レナード・フェザー)、ダウン・ビート誌(ハーブ・ウォン)、NBC放送局などのインタヴューに忙殺された我々だったが、こうしたニュースは想像を絶するスピードで全米に伝播されたらしい。帰国後フェザーがぼくに送ってきたインタヴュー記事は驚くほど詳細にわたっていたが、たとえば氏の記事は全米350以上の新聞にシンジケートするほどの影響力を持っていたのである。パーカー像を彫刻したジュリー・マクドナルド女史(このデッサンはニュー・ハードの「パップ/アップ・トゥー・デイト」の表ジャケットを飾っている)は、自分とも関係のあるニュー・ハードの話題でもちきりの米ジャズ・シーンに驚いていると書いた手紙を知人宛によこしたほどだ。

この日、ニュー・ハードは翌22日の演奏に備えて、ゲストを混えてのリハーサルを行なった。ゲストのリーダーはもちろんガレスビーで、ジェローム・リチャードソンやカル・ジェイダー・グループらの面々が勢揃いした。曲は「ティン・ティン・デオ」と「マンティカ」。1940年代後半に用いた恐ろしく古いアレンジで、譜面にはのちに何度も手を加えたあとが歴然としている。この時もそうだった。ディジーは愛器を吹いたり、ピアノを弾いたり、ときに大声で歌い、ジョークをとばしたりしながら、古いスコアから新しい音を引き出していく。いちばん興味深かったのは「マンティカ」のリハーサルのとき、2人のベース奏者(伊藤昌明とハーヴェイ・ニューマーク)にベース・パターンを教示したときのことだ。ニューマークは何度やってもガレスビーの微妙なアクセントが分からない。一方伊藤の方はガレスビーの口移しでこれを呑み込んでしまった。ディジーはニヤリと笑って傍らのジェロームを見やった。
<譜面に書くより、口でやった方が早い。もともと我々の音楽はこうだったんだ。>

実をいえば、ニュー・ハードは初日のアンコール用の曲として「ラ・フィエスタ」を用意していた。だが「直立猿人」を始めたところで、終了予定時刻を遥かにオーバーしたため、ジャズ祭実行委員会は急遽、アンコールなしで幕をおろすことに決めたのであった。だから宮間さんは一瞬、やっぱり駄目だったかと思って暗澹たる気持ちに襲われたそうだ。ぼくは宮間さんの意向を受けて、この日の朝ライオンに、ニュー・ハードに単独の演奏チャンスをもういちど与えて欲しいと頼んでおいた。ライオンは宮間さんの希望をかなえてくれた。というのは、当夜はラテン・イヴニングだからという意味での配慮があったからだろう。それに合わせて当夜は司会も南米メキシコ系のD.J.でKABC局のリチャード・レオスがつとめた。

ニュー・ハードが登場したのは、カル・ジェイダー・クィンテット+モンゴ・サンタマリア、アイアート・モレイラの「フィンガーズ」らが人々を熱狂させて、フィールト全体が大きく盛りあがりつつあるときであった。本アルバムの2枚目はここから収録されている。

ラ・フィエスタ

いうまでもなくチック・コリアのオリジナル、ビッグ・バンドではすでにウディー・ハーマン楽団やメイナード・ファーガソン楽団らが吹込んでいる。実は、ぼくがライオンに当夜の単独演奏を打診したとき、彼はこう言ったのである。<ウディ-・ハーマンのこれがヒットしているのを知ってるだろう?知っててやるんだから大変な自信だなァ>これを山木幸三郎が編曲。アンサンブルを主にした
ドラマティックなアレンジ構成が光る。ニュー・ハードのソロイストでは率直にいって片岡輝彦が断然、光彩を放った。鈴木孝二、岸義和、四方田勇夫らも賞賛されたが、四方田と並んでアルトの白井の著しい成長をぼくは秘かに注目した。ここでのソロもいい。ソロは白井敦夫(as)のほか、鈴木孝二(as)、四方田勇夫(ds)。

ティン・ティン・デオ

ここでディジーー・ガレスビーが登場する。ラテン・ジャム・セッションの1曲目だ。ディジーはメンバーにおじぎをしながら入ってきた。ここに収録されているディジーのことばはそのオチであり、フェスティヴァルに新鮮な響きをもたらしたニュー・ハードに対する彼の敬意を示したものでもある。<この男たちは肌は黒くないが、演奏ときたら間違いなく黒いよ、そうだろう?>

指示を与えている間も、聴衆に尻をつきだしてセクシーに動かしたりしては笑わせる。ディジーはやはりこうしたフェスティヴァルには欠かせぬ役者でもあった。曲はA(16小節)/ A’(16)/ B(8)/ A’(8)の構造をもつディジーのオリジナル。ディジーがエモーショナルなソロ(1コーラス)をとる。

マンティカ

いよいよフィナーレである。ディジーの有名なオリジナル、A(8小節)/ A'(8)/ B(16)/ A'(8)
形式作品をジャムろうというわけだ。レオスがミュージシャンを次々と呼びあげる。
 ディジー・ガレスビー(tp,cond)
 ジェローム・リチャードソン(as)
 モンゴ・サンタマリア(congas)
 カル・ジェイダー・クィンテット
 カル・ジェイダー(vib.timbel)
 フランク・ストラッツェリ(p)
 ハーヴェィ・ニューマーク(b)
 ディック・パーク(ds)
 マイケル・スミス(bongos)
 マイク・ウォルフ(perc)
 ジョン・フォディス(tp)
 カーミット・スコット(ts)

最後の3人は飛び入りで、マイクはロレイラ・グループのピアニストだ。ガレスビーのキューでリズム・パターンが提示される。前日のリハーサルで、「I never go back to Georgia」のところを、ディジーと打合わせて「カエラナイ・トゥー・ジョージア」とやる手筈になっていたのだが、ディジーは忘れてしまったらしい。

テーマが出る前にガレスビー自身とカル・ジェイダーのソロがる。そしてテーマ、テーマ後のソロはジェローム・リチャードソン、ガレスビー(16小節)、モンゴ・サンタマリア+リズム。聴衆の爆笑がかすかに聞こえるのは、ディジーが山木さんを舞台前に引っぱりだし、2人で珍?ダンスをやりだしたためだ。やがて最後のテーマが鳴りわたる。フィナーレの興奮はフェアグランド一帯に広がった。全員歓呼の総立ちー

そしてアンコール。いったん引込んだガレスビーが、tpセクションに参加していた息子?のジョン・ファディスを伴って出てくる。アンサンブル・オスティナートをバックに2人のデュエットが始まった。かけあいが始まったところでテープが切れており、不自然にならぬようにテープをつなぐことにした。いずれも後を追って吹いているのがファディスで、最後は1小節チェイスのような形になる。

まもなく両者のプレイが重なり合い、ディジーがキューをふろうとした瞬間に1人の黒人がテナーを吹きながら上手から出てきた。カーミット・スコットだ! 「チャーリー・クリスチャン・アット・ミントンズ」でのプレイで辛うじて名を知られているこのテナー奏者は、チャーリー・パーカーやディジーとも共演した幻のテナーマンである。

フェザーでさえ22年ぶりに彼のプレイを聴いたのだという。現在はフリスコで労務者として働きながら、時たまテナーを吹くという。彼の姿を見たディジーがキューをふるのをやめ、彼をステージに迎え入れたとき、ぼくはふと胸が熱くなった。バックステージにいた彼は、<興奮のあまり居ても立ってもいられなくなって>(スコッティー談)、ステージに飛び出してきたのである。それは激情的な、そしてスピリチュアルなソロだった。そして、ファディスを中心としたブラスのハイ・ノートが夜空に突き刺さって、フィナーレはゆっくりと、しかし素晴らしく感動的なクレッシェンドで終わった。再び爽快なステンディング・オヴェイション。フェザーは書いた。<これは音楽における「異花受精」の究極的な姿だった。つまり、ジャズは20世紀の音楽のエスペラント語であるという事実を祝福するために、さまざまな文化がここに集まり、ここで見事に混ざりあったのだ>(同)

そしてこう結んだ。

この栄光はバンドの1人1人の実力でかちとったものだ。宮間さんはリーダーとして決して振り向かない人だった。このアルバムをひとつのメモリアル・モニュメントとして、ニュー・ハードはさらに新しい一歩を踏み出していくに違いない。

1974-12-24 MASAYOSHI YUH  悠 雅彦