資料館 2018.03.04

82歳を迎えた、宮間利之のメッセージ(2003年当時)

宮間利之、ニューハードリーダー

僕のジャズとの出会いは、15~6歳の頃、近所に住む幼な友達とハーモニカバンドをやっていた頃、先輩がその当時まだ珍しいジャズのレコードを沢山持っていて、よく皆で聴かせてもらいその音楽に心を動かされたことです。どうしてもジャズがやりたくて、海軍軍楽隊に入りました。第二次世界大戦前のそろそろ参戦ムードが高まっていた時代でした。相当難関だったように記憶していますが、入隊できたのは運がよかったからでしょう。ここでは音楽、楽器の基本を徹底的に教え込まれ、軍隊式の訓練が2年間くらい続きました。

戦後すぐジャズ界に入り、アルトサックス奏者で米軍クラブなどに出演し、この頃のアメリカの新しいジャズサウンドにいち早く接することができたのはラッキーだったと思います。1950年「ジャイブエーセス」を結成し、さらに米軍キャンプを中心にした広範囲な演奏活動をすることができました。1958年、小羊の群というような意味の「ニューハード」に改称し、楽団もフルバンド構成にしました。
 ちょうどテレビの創世記にあたり、コンサート活動のほかにもテレビ・ラジオの仕事も来るようになりました。江利チエミのコンサートは、ほとんどと言っていいほどバックを務めましたが、今思い出しても彼女のジャズに対するセンスは偉大だったと思います。日本でビッグバンドの地位が固まったのはこの頃だと思います。レコード界へデビューしたのもニューハードになってからです。

1974年モンタレー・ジャズフェスティバルで日本のジャズミュージシャンとしては初めての最高の栄誉賞をもらったり、翌年のニューポート・ジャズではカウントベーシー楽団と競演したことなどは今でも強烈な印象として甦ってきます。この頃から海外遠征の機会も増え、南米、ニース、東欧やインドにまでも20名を超える団員、スタッフと共に大移動しました。2000年にはJVC(ニューポート・ジャズ祭改称)にも久しぶりに参加し、旧知のミュージシャンやファンに歓迎されたことも嬉しいできごとのひとつです。

よく健康の秘訣は、と聞かれますが特に意識してやっていることはありません。僕は、昔からお酒は一滴もやりませんが、日頃まめに体を動かしている事と食事をしっかり取る事が健康にいいのかも知れません。

これからもニューハードでしかできない曲目や演奏をどんどん開拓、挑戦していきたいと思います。53年やってきても、もうこれでいいんだ、という境地にならない、これはどの世界でも同じでしょう。僕がジャズと出会った時の感動を今の若い世代にも伝えたく全国の小・中・高校の芸術鑑賞会を通して、もっともっとジャズの良さを知っていただくのが僕のささやかな願いです。

2003年7月。(横浜JAZZ Promenade 2003 10/11・12 パンフから)